肥沼信次医師の経歴や顔写真は?ドイツ人を救った歴史的偉業とは?

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第二次世界大戦に、ドイツのとある田舎町でドイツ人を救った医師、肥沼信次さんの経歴、顔写真、ドイツ人を救った歴史的偉業について調査しました。

肥沼信次【こえぬまのぶつぐ】医師の経歴

  • 生年月日 1908年10月9日(1946年没)
  • 東京都出身(八王子市)
  • 出身高校 現在の立川高校
  • 出身大学 日本医科大学、東京帝国大学
  • 職業 医師(外科医)

父が、軍医もしたことがあり地元の東京都八王子市で開業医をしていた。

肥沼信次【こえぬまのぶつぐ】さんも、医師への道を進み、大学は、医学の大学で学ぶ。1937年には、留学生としてドイツに渡る。

肥沼信次さんが学生のころは、「数学の鬼」というニックネームがついていて数学を熱心にこなしていました。

ベルリン大学などに客員研究員として活躍。実験や研究をかね、ドイツベルリン大学では、東洋人として初めての教授資格を取得。

アインシュタインが教授を務めていたベルリン大学は、肥沼信次さんにとって憧れの大学でした。

地元東京都、八王子市ではちよっとした有名人。

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肥沼信次医師の顔写真

非常に勤勉な感じのお医者さんて感じです。

肥沼信次医師のドイツ人を救った歴史的偉業とは?

肥沼信次医師がドイツに渡った時は、ナチス政権で大変な時期でした。ナチス政権からは、ナチスに忠誠を誓う、宣誓書を提出するよう求められました。

肥沼信次医師が提出した、宣誓書は、日本人であることを主張する内容が書いてありました。当時、そのようなことを言うのは、度胸がいることだったそうです。

また、1945年にドイツでの戦況が悪化したことを理由に、日本から、ベルリン在留日本人を帰国させるように指示しましたが、肥沼信次医師は、ドイツにとどまりました。

その後、ドイツのエーヴェルスヴァルデに向かいました。肥沼信次医師がそこに向かった理由は明らかにされていません。

エーヴェルスヴァルデの隣町のリーツェンに新設された、伝染病医療センターの所長に肥沼信次医師は任命されました。

その町は、戦争の影響で不衛生な環境になり、伝染病の発疹チフスが大流行。

しかし、戦争中ということもあり、現地のドイツ人医師は、徴兵されていました。

そこで、日本人でベルリン大学などで実績のある肥沼信次医師が活躍しました。

勤勉な、肥沼信次医師は、あまりよくない環境の中でもベルリンに出向いて薬を持ってくるなどして治療に専念しました。

伝染病医療センターの所長に任命されてからは、リーツェンに移住しています。

また、リーツェンから5キロほど離れた、難民収容所では、不潔な部屋の中でもめげづに医師として活躍しました。

また、5歳の少女を治療した出来事が有名です。2日間もかかるソ連の野戦病院へ薬をもらいに行き、その少女を助けたことが有名です。

その少女は、薬剤師になったそうです。

肥沼信次医師のドイツ人を救った歴史的偉業は、

勇敢かつ献身的な治療としてたたえられています。

リーツェンに移住してからたったの4か月後には、肥沼信次医師にも発疹チフスになってしまいました。

しかし、その後も、医師として治療を続けていました。

しかし、その功績もむなしく、

最後に、

「桜をもう一度見たかった。みんなに桜を見せてあげたかった。」

を言い残し、37歳の若さで亡くなっています。。

肥沼信次医師の消息が伝わったのは、43年後の朝日新聞のとある記事からはじまりました。

これをきっかけに、1994年に肥沼信次医師の博士記念式典が開かれたり、リーツェンの伝染病医療センター(現市庁舎前)には、大理石の記念銘板が立てられ、100本の桜の苗木が贈られるなど

肥沼信次医師の功績が讃えられました。

3月11日に起きた、東日本大震災では、肥沼信次医師に助けられた田舎町の、リーツェンから義援金が贈られるなどしました。

肥沼信次医師の功績は、ドイツのリーツェンでは、歴史的な偉業です!

まとめ

肥沼信次医師は、第二次世界大戦中にドイツで伝染病の発疹チフスなどを治療した優秀な日本人医師です。

肥沼信次医師がドイツで行った歴史的偉業は現在でも語り継がれている立派な功績です!!

最後まで閲覧ありがとうございました!
以上だい吉でした!
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